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伝えられた文字|墨宝・史料

弘法大師・空海 尺牘『風信帖』

『風信帖』は、弘法大師・空海が天台宗の開祖・最澄に宛てた3通の手紙をまとめた巻物であり、日本書道史上の名跡として極めて高い評価を受けています。その名称は、第1通目の冒頭に記された「風信雲書」という言葉に由来しています。もとは5通あったとされますが、現在は、1通が盗難に遭い、もう1通が豊臣秀次に献上されたため、3通のみが現存しており、これらは京都の東寺(教王護国寺)に国宝として所蔵されています。 この書簡が書かれたのは、空海と最澄の交流が深まったとされる810年頃とされています。両者は遣唐使として中国で仏教を学び、帰国後、日本仏教の発展に大きく貢献した歴史的人物です。風信帖の内容は、こうした2人の仏教や密教に関する議論、そして深い親交を物語る貴重な記録となっています。

空海 書『高野建立初結界時啓白文』

『高野建立初結界時啓白文』は、弘法大師・空海が和歌山県の高野山を開創する際に作成した極めて重要な文書であり、その思想や宗教的実践を理解する上で貴重な資料とされています。 この啓白文は、空海が高野山を真言密教の修行と信仰の中心地とするために行った「結界」という聖域設定の儀式とその意図を詳細に記録しています。 結界の主な目的は、高野山を清浄な聖地として確立し、仏教の修行が安全に行われる環境を整えることにありました。文書には、諸仏・諸尊、さらには国中の神々を勧請し、真言密教の修法を用いて結界を行ったことが明記されています。その範囲は「東西南北上下七里」と広大に設定され、悪鬼神を排除する強い意図が込められていました。この儀式は、密教の教義に基づき、聖域を浄化し守護するという空海の深い信仰心と、高野山を仏教の聖地として確立しようとする揺るぎない決意が反映されています。

『弘法大師二十五箇条遺告』

『弘法大師二十五箇条遺告』 は、弘法大師・空海の遺告で、 真言宗の僧として守るべき事がらが二十五箇条にわたって記されています。巻末に「承和二年 (835年) 三月十五日」の作成日記が記され、第一条によれば入定前の空海が仏法の永遠の護持を弟子に託すために本書を記したことになっていますが、文章は空海本人が書いたものではなく、本書は入定後に成立したものといわれています。ただし、最古の写本には安和2年(969年)の年紀があるので、入定後それほど時を経ずに作られたと推測されます。

伝 空海 書『飛白十如是』

弘法大師・空海の書と伝えられる飛白体の書『飛白十如是』は、仏教の深遠な教えである「十如是」という概念を、「飛白体」と呼ばれる独特な書体で表現したものになります。 「飛白体」とは、筆のかすれを意図的に活かす書法で、軽やかで動きのある線が特徴であり、漢の時代に起源を持ち、空海がこの技法を日本に伝えたとされています。飛白体は、書道の芸術性を高めるだけでなく、仏教の精神性を視覚的に表現する手段としても用いられました。

小野道風 書 『円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書』

智証大師・円珍は、讃岐国(現:香川県)に生まれました。俗姓は和気ですが、円珍は空海の縁戚にあたります。 円珍の生涯における重要な転機は、853年(仁寿3年)の入唐求法です。商船に便乗して唐へ渡り、6年間にわたり天台山や長安の青龍寺などで天台学や密教を深く学びました。特に青龍寺では法全和尚から密教の奥義を伝授され、多くの経典や仏画、そして唐での通行許可証(過所)などを日本に持ち帰りました。 帰国後、円珍は荒廃していた園城寺(三井寺)を再興し、天台宗の別院として中興しました。868年(貞観10年)には、比叡山延暦寺の第5代天台座主に就任し、天台宗の発展に尽力しました。 円珍の主な功績としては、園城寺を拠点として天台寺門宗(寺門派)を確立し、比叡山を中心とする山門派との分派の基礎を築いたことが挙げられます。また、唐で学んだ密教の教えに基づき、天台密教(台密)の基盤を確立し、真言宗の東密と並ぶ密教の一大潮流を形成しました。

『大般若波羅蜜多経』

『大般若波羅蜜多経』は中国の唐王朝の時代に、玄奘(602年~664年)が集大成・翻訳した大乗仏教の重要な経典です。通称は『大般若経』、あるいは『般若経』とも呼ばれます。この経典は、大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な「般若経典」を集大成したものであり、全16部(会)600巻にも及ぶ膨大な経典群です。現在、日本国内の各寺院に保存されている『大般若経』は、この玄奘訳のものです。 原型は、紀元1世紀頃または150年頃に成立し、サンスクリット文字(梵字)で文書化されたとされています。その後、長短様々な形態へと発展していきました。